『東濃地芝居』安田文吉

こりゃ勘平 早まったことを

 歌舞伎好きなら誰でも知っている『仮名手本忠臣蔵』六段目の「勘平腹切の場」の原郷右衛門と千崎弥五郎の台詞。親爺与市兵衛の持っていた縞の財布、しかも血が付いていたのを勘平が持っていたところから、お軽の母おかやの早とちりと、それに乗せられた鄕右衛門と弥五郎の責めにあい、ついに勘平は腹を切る羽目になった。ところが、かつて東濃の小屋でみた腹切は、原、千崎両人が与市兵衛の傷口を確認しにいって、「鉄砲傷には似たれどもまさしく刀で抉りし傷」と言っているときに勘平が早まって腹を切ってしまうというもの。普段見慣れた大歌舞伎では、勘平が腹を切ってから、両人が傷口を確かめに行き、後はその時と同じで、「こりゃ勘平、早まったことを」になる。私の子どもの頃からの疑問は、まず先入観だけで勘平を責めておいて、腹を切ってから傷口を確かめに行き、「早まったことを」とは理屈に合わない、何故傷口の有り様を確かめてから、次の行動(鉄砲傷だったら勘平を責める)に出なかったのか、ということだった。その疑問というか不満というかが、その演出でやっと納得がいった。しかも勘平は観客に背を向けて腹を切るので、切った当初は、観客に勘平の行為は明確には伝わってこない。その後の勘平の述懷でも、大歌舞伎では、派手派手しく血糊のついた手で右頬を「色に耽ったばっかりに」と言いながら、べたっと撫でるが、その時のは血糊は付いていなかった。

 大発見とばかりに、元東洋大学教授・前義太夫協会会長で、全国地芝居連絡協議会顧問の景山正隆先生にご注進。しかし先生は「それは、君、上方の型だよ」と、いとも簡単にお答えになった。歌舞伎は、江戸の荒事(好み)、上方の和事(好み)といわれてきたが、この勘平腹切にも両者の違いが鮮明だった。理屈はともかく、派手な演技が好まれるのは江戸方、ちゃんと筋を通すのが好まれるのが上方。東濃の地芝居の型は、最近は滅多に演じられることの無い上方の型だった。地芝居の重要な特色の一つは、このように、大歌舞伎ではほとんど演じられなくなっている上方の型をきちんと伝えていることだ。

 この演出は当時の振り付け師三代目中村津多七師や松本団升師によるもの。東濃の地芝居は、現在、中村高女、四代目中村津多七、市川福升、松本団女といった錚錚たる振り付け師の指導の下、地芝居ならではの、演目、型、演出を継承している。その上、村国座、相生座、常盤座、明治座、東座、蛭子座、白雲座、鳳凰座という、全国に希な多くの芝居小屋が有り、まさに地芝居王国そのもの。岐阜の宝、否、国の宝だ。この宝をもっともっと活用して欲しい。

〈筆者紹介〉

 安田 文吉(やすだ ぶんきち)

1945年(昭和20)11月19日、熱田区旗屋町に生まる。

幼少の頃より、母、常磐津文字登和(ときわづもじとわ・故人 西川鯉三郎師・同司津師に西川竜日本舞踊を習う。1065年(昭和40)4月、国立名古屋大学文学部に入学。歌舞伎・浄瑠璃の研究を行う。大学卒業後。同大学院文学研究科に進学、博士課程単位修得退学後、1977年(昭和52)4月、南山大学文学部(国語学国文学科)専任講師となる。助教授を経て、1989年(平成元)4月、教授をなり現在平成12年4月より南山大学人文学科部日本文化学科と改称・改組)にいたる。また、1966年(平成8)5月、名古屋大学大学院文学研究かより文学博士(論文博士)を授与される。全国地芝居連絡協議会顧問。

 

〈主な著書〉

『常磐津節の基礎的研究』

『「ゆめのあと」諸本考』

『幕末・明治 名古屋常磐津史』

『歌舞伎のたのしみ』

『地歌舞伎入門』

ほか

 

〈メディア出演等〉

1987年(昭和62)4月より1989年(平成元)3月まで「北陸東海 文さんの味な旅(NHK)のリポーターとしてレギュラー出演。1988年より年2回(3月・10月)